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『桶狭間の戦いの主戦場』この場で織田信長は今川義元を討ち取った。

桶狭間の戦い...戦国時代歴史を変えた大きな出来事として有名な合戦です。外出自粛が続きますので少しでも外出した気分になればと。また家で歴史(桶狭間の戦い)を勉強した人に、写真とブログで知識が定着しますようにこの記事を書きました。

愛知県名古屋市緑区にあります。

桶狭間古戦場公園

今川義元が打ち取られた最期の地と言われています。この公園には今川義元の墓碑、義元首洗いの泉などなど。解説が公園内にいくつか設置され、AR(Augmented Reality)=拡張現実アプリを使い公園内を歩くことで合戦を動画で見ることができる仕組みがあります。こちらは無料で利用できます。

歴史の勉強は嫌いでしたが、戦国時代だけは昔から好きでした。全国から歴史好きが集まる聖地とも言われるこの場所。

遠くの人はなかなか来れない場所だと思います。ぐるっと桶狭間の戦いを巡ってきましたので紹介します。

桶狭間の戦い

永禄3年5月19日(1560年)尾張の領主織田信長27歳が、駿河・遠江・三河の領主今川義元の、十倍に余る大軍を打ち破り、近世という時代の幕を開けた歴史上特筆すべき戦い。
今川軍が25,000人に対して織田軍は3,000人と言われている。
おけはざま山の陣地に入った今川軍、天気が急変し雷雨となり、高地に着陣していた。雷雨により大混乱状態の今川軍本隊。
一方織田信長は、清洲城を出陣し熱田神宮で戦勝祈願。善照寺砦に着き本陣ここにありと見せかけ、雷雨の中今川義元本陣近くの釜ケ谷に進み、雨が止むや間髪いれずに今川軍に突撃、遂に今川義元を打ち取った。(「信長公記」による)

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)




義元公首洗いの泉

織田軍に攻められ討ち死した今川義元公の首をこの泉で清めたと言われています。

七ツ塚

桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長。全軍を釜ケ谷に集め勝どきを上げた後、この戦いの大勢の戦死者を信長は村人に丁寧に葬るように命じて引き上げました。村人は七つの塚を建て弔い、後年これを一つにし「七ツ塚」と称して残してきました。里人は七ツ塚、又は石塚と称しこれを取り壊す者には、「たたり」があり命を失った者もいたそうです。平成元年の区画整理に伴い塚を整備し塚の一つを残し、その一角に碑が建てられました。








民家の間に一本道があり奥に進むと七ツ塚があります。看板の文字を読むとゾクッと寒気がして写真を撮りすぐに移動しました。

釜ケ谷

信長隊が今川隊への突撃の機を窺った場所。この釜ケ谷に到着した時には激しい雷雨でした。この付近に潜み雷雨が上がるのを見て、おけはざま山に陣取る今川本隊の右翼を急襲しました。敵が逃げ崩れるところ、その後方にある輿をみつけ、信長は義元の本陣はここにありと確信して一気に攻撃を仕掛け劇的な勝利をおさめました。
信長は「懸からば引け、退けば引きつくべし」と命じていました。義元の輿を見つけたという情報で、素早く本陣突撃に切り替えられたのは、信長自身が前線に居たからだといわれています。この写真の斜面を信長率いる軍勢が突撃の際に駆け上がったといわれています。




織田信長が天下統一の第一歩を踏み出した、桶狭間の戦いの主戦場はこの附近一帯での出来事です。話のスケールは大きいですが、有名な桶狭間の戦いの主戦場は、意外にも徒歩で辿ることのできる距離でした。
歴史を学び訪れることで、この場所で何が起きたのか信長は義元は何を思っていたのか。想像するだけであっという間に時間が過ぎています。近くに行ったら必ず立ち寄るべき場所だと思いました。

JIN-仁-歴史好きに、興味を持つきっかけに

JIN-仁-ドラマが再編集され特別編として放送されます。江戸時代を舞台としていますので、今回紹介した桶狭間の戦いとは時代が違いますが、坂本龍馬や西郷隆盛、勝海舟、近藤勇、吉田松陰歴史上の人物を知り見るドラマは最高に面白いです。またJIN仁の影響で歴史ブームがくるかもしれません。楽しみです。